Temple Art Gallery

"Sanzen-Butsumyo-Hoto-Zu"
(The Scroll of the Treasure Tower of 3,000 Buddha Names)


Produced in the Heian Period
By Keison


十三重の塔と光背を描いた文字絵です。塔は三千の仏様の名前でできており、見ているだけで気の遠くなるような文字の配列です。下段に集まっている僧俗・鬼神等のゆたかな表情に、なみなみならぬ技術の高さを感じます。国の重要文化財に指定されています。

■室町幕府初代将軍「足利尊氏」の従弟が冨賀寺の住職をしていたときに寄贈されたようです。

■朝日新聞社出版「國華」1147号3ページでも紹介されています。中国より渡来した竺仙梵僊(じくせんぼんせん)の讃文が正慶2年(1333)に書かれています。

"Shaka-Sanson-JurokuZenjin-Zu"
(The Image of Goutama Buddha with 16 gods)

■室町時代/作者不明
■中央に釈迦如来が大きく描かれ、前の二菩薩は文殊菩薩と普賢菩薩でしょうか。大般若経を守護する16人の護法善神で当寺では、2月の星祭り法会のときにお掛けしています。全体に黒と赤の色が目立ちますが、着衣の文様、持物に金泥を用いてていねいに描かれています。保存状態もよく、室町時代の傑作です。寺伝によれば、江戸時代にいったん紛失し他氏の元に渡りましたが、貞享4年(1689)に冨賀寺に奉納されたようです。

"Kobo-Daishi-Zu"
(The Image of Kobo-Daishi)


室町時代/作者不明
弘法大師・空海(774〜835)は当山真言宗の開祖であり、高野山に金剛峯寺を開かれました。この図は、右手に五鈷杵をにぎり、左手に念珠をかけて牀坐に座る通有の表現です。口元の朱があざやかで、青年期を思わせる充実した図です。全体に室町時代の古様さを残しているようで、江戸時代の修理が施されたものと思われます。

"Kujaku-Myoou-Zu"
(The Image of Peacock Buddhai)


■江戸時代/作者不明
■孔雀明王は明王であるが仏母とよばれ忿怒形でなく、女性的な菩薩形で表されます。毒蛇を食う孔雀を神格化したもので、息災延命はもちろん、ことに請雨止雨の祈祷に祭られました。この図は、一面四臂で右手第1手に蓮華、第2手にレモン、左手第1手に吉祥果、第2手に孔雀の羽をもち、孔雀の上の蓮華に座しています。全体に彩色もよく、まとまった作品です。

"Godai-Myoou-Zu"
(The image of Five Guardian Gods)


江戸時代/作者不明

中央に不動明王、向かって右下に降三世(ごうさんぜ)明王、左下が軍荼利(ぐんだり)明王、左上が大威徳(だいいとく)明王、右上が金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王です。金地に朱と群青・緑青の色彩対比をきかせて描いた鮮やかな作例であり、着衣の文様も金泥で細かく丁寧に入れられています。江戸時代五大明王図の傑作です。

"Aizen-Myoou-Zu"
(The image of Aizen Guardian Gods)


江戸時代/作者不明

「愛染明王」は、愛欲貧染をそのまま浄菩提心にせしめる明王です。赤い日輪を背にして、弓と矢をもち真紅の体で、宝瓶に乗っています。画中銘に「従五位下藤原朝臣 信濃守福用」ありますが、福用は元宇利城主近藤氏の末裔で金指八代の当主です。先代寿用が冨賀寺に近藤家祖先の墓を建てたりして、冨賀寺との交流があったが、この図の筆者かどうかははっきりしません

"Tokugawa-Jyuroku-Sho-Zu"
(The image of Shogun Ieyasu with 16 warriors)



江戸時代/作者不明

■中心にいる徳川家康を、16人の家臣が囲んでいます。冨賀寺と家康の関係から判断すれば、このような礼拝の対象となる作品があるのは、むしろ自然なことと考えられます。

"Koya-Shisha-Myoujin-Zu"
(The image of Koya Gods)


■江戸時代/作者不明
■弘法大師が唐から帰国する際、三鈷杵を日本に向かって投げたと伝えられています。帰日した大師が、三鈷杵を探していたときに、2頭の犬を連れた猟師に出会い、その犬の導きで高野山に登ったと言われています。この猟師が高野明神の化身だったといわれます。絵の向かって右上の団扇を持つ天女が丹生明神、左上の束帯の男性が高野明神、右下の払子を持つ天女が気比明神、左下の琵琶を持つのが弁財天です。

「三酸図」(さんさんず)

室町時代/啓孫作
■3人の高士が壷のなかの酢をなめ、おなじように顔をしかめています。これは禅宗の儒・仏・老一致の思想の反映で、三人の人物は、孔子・釈迦・老子だといわれています。啓孫の師祥啓は鎌倉将軍の書画の鑑定・管理をしていたほどの画師です。

"Hotei-Zu"
(The image of Hotei God)


室町時代/作者不明
太鼓腹をつきだして大きなずだ袋に布袋様が寄り掛かっています。室町時代後期の狩野派の影響が見受けられます。ところどころに補修のあとがありますが、貴重な作品として大切にされていたことが推測されます。

"Tenjin-Zu"
(The image of Tenjin)


■室町時代/土蔵作
天神様すなわち、「菅原道真公」の肖像です。束帯姿の公の衣には、膠を混ぜた墨で梅鉢模様が描かれており、なかなか技巧がこらされています。筆者土蔵は室町中期に幕府に属し、相国寺山門の羅漢像の彩色などを行っており、絵仏師として中心的活動をしていました。この図は、貴重な作品として東京教育大学教授赤沢氏により美術雑誌「国華」にも紹介されています。朝日新聞社出版「國華」の1148号7ページにも紹介されています。

"Ryu-Zu"
(The image of Dragon)


■江戸時代/在孝作
わき上がる雲の中に姿を現した龍が描かれています。筆者の在孝は、字は子止、号は後素といい、京都の六軒町で活動しました。


"Koi-Zu"
(The image of Carp)


■江戸時代/雪洞斎東敬作
■なかなか迫力に満ちた傑作です。竜門は中国の黄河中流域にある険所で、山岳が対峙して門口をなしています。ここの急流の波音は、百千万の雷が一度になったようだと形容されており、鯉がここを登り切ると龍になると言い伝えられています。「雪洞斎東敬」の落款があるが姓名は不明です。

"Enkou-Sokugetsu-Zu"
(The image of the monkies trying to pick up the moon from the pond)


■江戸時代/作者不明
■樹上の猿が、水面に映った月を取ろうとしています。その猿の愚かしさを人間自らに投影し、人間の愚かしさを自覚しようとするものでしょう。この絵の手法は、中国の牧谿にはじまり、日本では長谷川等伯の派に影響を与えています。

"Kei-Zu"
(The image of a chicken)


■江戸時代/作者不明
■鶏は、明け来る東の空をキッとにらみつけ、やおらトキの声をあげようとする姿に描かれます。落款に「雲谷某」とあることから、雪舟の流れを汲む雲谷派の作品でしょう。

"Fuji-Zu"
(The image of Mount Fuji)


■江戸時代/恩田石峰作
■海ににつきだしている連続する岬を表すのにシルエット表現を用いていますが、その濃さを次第に薄くして不思議な奥行き感を漂わせています。石峰は豊橋の生まれで、渡辺華山以来の実力派としてこの地域で活躍しました。

"Koubai-Zu-Soufuku"
(The scroll of Red Plum Tree)



■江戸時代/猷山作
■蘭・竹・梅・菊は四君子といわれて、文人画ではよく描かれています。白梅は花びらの輪郭を細い線で描き、紅梅は輪郭線を描かずに薄い墨をぬりつけて描いています。猷山という画人については、はっきりしませんが大幅を軽々と仕上げていることから考えると、素人ながらなかなか熟達した作家といえましょう。

"Gabi-Sekisetsu-Zu"
(The image of Snowy Mount Gabi)


江戸時代/伝与謝蕪村作
峨嵋は中国四川省にある名山で、険しい道を人々が歩いて行く様子です。胡粉を点じて雪を描いています。箱書きに「蕪村先生直筆」と金谷が書いていますが、専門家によると、金谷が蕪村の「蜀桟道図」を模写したもののようだとのことです。

"Gekka-Hototogisu-Zu"
(The image of a little cuckoo under the moon)


江戸時代/鶴州作
■月あかりの下をホトトギスが飛来しています。嘴がわずかに開いているので、「テッペンカケタカ」と鳴き声を響かせているのでしょうか。この図は、新城城主菅沼新八郎定志(1821-1855)が大福寺・冨賀寺に参詣したおりにたいへん歓待されそのお礼に贈られたものだということが、軸の裏に貼られた文書から判明しました。定志は絵画・茶道をたしなんだ風流人で、彼の作品は三原屋さんにも残されています。

"Gohyaku-Rakan-zu"
(The image of 500 Gods)


■江戸時代/風外本高作
■山道を延々と五百羅漢が降りてくる様子で、飄々とした僧形に描かれ、おおらかな気分が感じられます。「風外」(1779〜1847)は、伊勢の国の農民の子として生まれましたが、寺門に入って絵を学び、雲水として各地を廻りました。出雲の国松江にしばらく滞在し、池大雅の書画に傾倒した。55才の時まで足助の香積寺の住職として活躍しました。

"Boku-Bai-zu"
(The Bokuju Picture of a Plum tree)



室町時代/月下園作
白梅が画面いっぱいに描かれています。画面の余白に薄く墨彩がほどこされており、月に照らされた夜の梅です。「月下園」という作者名は不明です。
 
"Shunkei-Sansui-zu"
(The image of a Spring Mountain)


■江戸時代/横山金谷作
■新城市指定文化財。

"Kakei-Sansui-zu"
(The image of a Summer Mountain)


■江戸時代/横山金谷作
■新城市指定文化財。

"Shukei-Sansui-zu"
(The image of a Autumn Mountain)



■江戸時代/横山金谷作
■新城市指定文化財。

"Toukei-Sansui-zu"
(The image of a Winter Mountain)



■江戸時代/横山金谷作
■新城市指定文化財。

"Sansui-zu-Ou"
(The image of a Mountain)


■江戸時代/豊谷作
■豊谷は、横山金谷の弟子と思われ桝。構成力ではさすがに金谷には及びませんが、有能な弟子と考えられています。